2015年12月25日金曜日

あなたが今年読んだオススメの本は?

WW&RW便りも、今号が今年の最後です。

1年間、自分は成長したかな?
何をおもしろいと思ったのかな?
何には怒っていたのかな?
何で幸せを感じていたのかな?
などと考えてしまいました。★

自分の成長とは少し関係のある、今年読んだオススメの本は・・・・

・(ちょっとタイトルはいやらしいですが★★)『学力をのばす美術鑑賞』フィリップ・ヤノウィン
・(『読書家の時間』の執筆者の一人の都丸さんに紹介してもらった)『エミリーへの手紙』キャムロン・ライト
・(原書が出版された時に、ある出版社に翻訳を勧めた)『ワンダー』R.J.パラシオ
・(日本でこのような本が出るまでにはあと何十年かかるかな~と思ってしまった)『イギリス教育の未来を拓く小学校』マンディ・スワン&アリソン・ピーコック他
・(教育と病院やドキュメンタリーの共通性を気づかせてくれた)『精神病とモザイク』想田和弘
他にも、読み・書き(国語)+教育関連は何冊もありますが、すべて英語なのでここにはリストアップしません。★★★

あなたの今年のオススメの本を、吉田(pro.workshop@gmail.com)にぜひ教えてください。

よいお年をお迎えください。


★ もちろん、個人レベルだけでなくて、学校も含めた様々な組織レベルや国のレベルでも。後者のほうは、どうも停滞気味というか、悪化気味でしょうか?

★★ 原書には、「学力」という言葉などありません! 出版社が「学力」を使わないと売れないと思っているんでしょうか? 極めて日本的現象!


★★★ 日本の読み書き=国語教育の停滞は、こんなところにも表れていると思います。読みたい本や紹介したい本がなかなか出てこないのです。刺激がないので、当然実践もよくなりません。 ある意味、本を読むと本を書くはつながっています。読んでいて満足できるものがなければ、自分で書くしか選択がないということになります。 ぜひ、挑戦してください! Appleでそれをいろいろ成し遂げたSteve Jobsのような発想で!


2015年12月18日金曜日

『理解するってどういうこと?』と『わかりあえないことから』


 『理解するってどういうこと?』の第7章「変わり続ける以上に確実なことはない」には、果てしなく対話する、エリンさんの家族のことが書かれています。支持政党を異にするエリンさんのおじいさんたち。そしてまた、エリンさんも夫とは支持する政党が異なります。しかし、この家族はけっして仲が悪いわけではない。支持するものが違うからと言って、それを敵視するようなことはなく、お互いの言いたいこととその根拠をできうるかぎり理解しようとしています。だから、この家族はとても仲が良くて、お互いのことがよくわかっているように見えます。

これはどういうことなのでしょう?

主義主張が異なるから物別れに終わる、ということはよくあることです。しかし「異なる」からこそ、わかろうとする意思が生まれる。これは、何も政治に関する話に限りません。私たちには、生きている時代も状況も異なる昔の絵や文章、外国の絵や文章を、わかったつもりになることも少なくありません。

 平田オリザの『わかりあえないことから』(講談社現代新書、2012年)に、次のようなことが書かれていました。


私たちは、「心からわかりあう関係を作りなさい」「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」と教え育てられてきた。

 しかしもう日本人はわかりあえないのだ……と言ってしまうと身もふたもないので、たとえば高校生たちには、私は次のように伝えることにしている。

「心からわかりあえないんだよ、すぐには」

「心からわかりあえないんだよ、初めからは」

 この点が、いまの日本人が直面しているコミュニケーション観の大きな転換の本質だろうとわたしは考えている。

 心からわかりあえることを前提とし、最終目標としてコミュニケーションというものを考えるのか、「いやいや人間はわかりあえない。でもわかりあえない人間同士が、どうにかして共有できる部分を見つけて、それを広げていくことならできるかもしれない」と考えるのか。(『わかりあえないことから』207208ページ)


 この本がどうして『わかりあえないことから』というタイトルを付けられているのかを、読者としてわかったつもりになるような一節です。平田さんは、こうした考えを、「協調性」に変わる「社交性」と呼んで、「好むと好まざるとにかかわらず、国際化する社会を生きていかなければならない日本の子どもたちに、より必要な能力」の一つとして位置づけています。平田さんが使っている「共有する」という言葉はparticipateともshareとも訳せる言葉です(もちろん翻訳によって生まれた言葉なので、その逆なのでしょうが)。「共有する」ために「発信」し参加しなくてはならず(particiapte)、「共有する」ためにお互いの話を「聞き」「察し合う」ことが必要です(share)。そして、commnicateという英語にも「共感する、わかりあう」という意味があります。「共有する」を広げるために「共感する、わかりあう」ことが必要だ(communicate)ということにでもなるでしょう。

 『理解するってどういうこと?』第7章に書かれているキーンさんの家族のエピソードが伝えているのも、まさにこのことなのです。対話は、参加し、察し合い、共感し、わかり合うために重要な、さまざまな理解の種類の一つなのです。対話するからこそ「共有する部分を見つけて、それを広げていくことならできるかもしれない」のです。

それは「コンテクスト」を見つけていく努力にかかっているとも平田さんは言っています。平田さんが「コンテクスト」と言っているのは、通常の「文脈」「場面」という意味ではなくて「『その人がどんなつもりでその言葉を使っているのか』の全体像」ということです(『わかりあえないことから』161ページ)。私は、これがあるから「察し合う」(これも、平田さんが大切な能力として指摘していることです)ことが可能になると思いますし、文章や絵の意味をつくり出すことができると思います。

そういえば、『理解するってどういうこと?』の第4章「アイディアをじっくり考える」でサラという小学校の先生はエドワード・ホッパーの『早朝の日曜日』をみて、何も起こらないから全然何もわからないというような意味のことを言っていましたが、オードリーという先生と対話することで、この絵の意味をつくり出す方法を手に入れて、対話が終わるころには最初の頃とは真逆に、『ある日曜日の朝』ではいろいろなことが起こっていて、みるのがおもしろくなったと言っています。彼女は『早朝の日曜日』でホッパーがどんなつもりで描いているのかの全体像を察することができて、つまらないと思っていた絵をおもしろくてたまらない絵だと思えるようになったのでしょう。エリンさんの家族がお互いの魅力をお互いの言葉から感じとり、察し合い、ゆたかに暮らしているように。ホッパーの絵の解釈も対話による相互の理解も、すべて「わかりあえないこと」から始まっていたのです。

2015年12月12日土曜日

「世界で一番の先生」はRW、WWの実践者


  RWWWの優れた実践者であるナンシー・アトウエル氏が、グローバル・ティーチャー賞という、大きな賞を受賞したというニュースが、今年の4月にアメリカPBSで放送されました。★

 そのタイトルは以下です。

【「世界で一番の先生」は、テストや小テストを信じていない】

 こんなタイトルなので、もちろん、報道の中で評価の話も少しでてきますが、それを見ていると、子どもたちの成長の軌跡が分かる評価だと感じます。

 これによると、日々、教師が子どもたちの進歩を評価しますし、評価に使われるポートフォリオには、子どもたちが学びでつくりだしたものや子どもたちの自己評価も含まれます。子どもたちは、各分野で考えたこと、取り組んだこと、学んだことについての質問にも答えます。
 これをインターネットで見ながら感じたことは、かなり理想的な条件なように見える実例から、基本理念を確認することの大切さでした。

  それぞれに教えている場所の事情によって、おそらく、限定的にしかRWやWWを実践できない場合が多いように思います。「それでも、なお」よりよい形・基本理念を心の中に持ち続け、追及していくことを考え続けることは大きい気がしました。

 今回、この報道を見て、RWやWWを実践している先生には当たり前のことですが、私は以下を改めて確認しました。

○ 「選択」の大切さ、そして「選択」は「放任」とは、まったく異なるものであること。

○ RWWWと同じような考え方が、他の教科の学びでも実践されていること。学習者を育てる学び方・教え方であれば、他教科の教え方が変わるのも当然なのかもしれません。
 
○ 「本当の」好奇心、情熱、モチベーションのある「本当の」学び。その道の専門家たち――文芸評論家、作家、数学者、歴史家、科学者等――が取り組むように、学ぶことが語られていました。

*****

  この報道は、英語ですが、インターネットでも見る・読むことができます。この中にはアトウエル氏のインタビューも含みます。
http://www.pbs.org/newshour/bb/worlds-best-teacher-believe-tests-quizzes/

 大きな賞で、賞金も100万ドルと多額です。

 なお、受賞の大きな理由は、アトウエル氏が1990年に創立した、小さな学校(小学校入学前から8年生まで、日本でいうと中学校2年生)です。そこでは地元の 子どもたちを教えるだけでなくて、この教え方に興味のある全国の教師たちをインターンシップを通して学べるようにもなっています。この学校のHPは以下です。
http://c-t-l.org/

2015年12月4日金曜日

書けない子との接し方

 『読書家の時間』の主要メンバーだった横浜の冨田先生が最近のクラスの作家の時間のエピソードを紹介してくれました。

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今年度は2年生を担任しています。
 どうしても書けない子がやはりいます。おそらく50音がやっと書けるレベルです。例えばAくん。「きゃ・きゅ・きょ」などの拗音や「っ」をつかった促音などは、ほぼ書けません。文章を読んだ感想を書いたり、その時間の振り返りを書いたりする時間になると、視線は壁に向いてしまい、一文字も進みません。
 まずは、僕がAくんと話をして、内容を書いてあげるところから始まりました。薄く書いてあげて、それをなぞる学習です。そうすると、だいぶ集中してなぞり書きをします。また、ノートに小さな文字でAくんの書きたいことを書いてあげると、それを活かして書けるようになるので、そのようなことも日常的にしています。
 Aくんは話す方は意外と上手です。スピーチの時も、カブトムシや幼虫を20匹飼っていて、おうちでカブトムシランドを作っているような話をしました。その数に虫好きの友達から感嘆の声が上がります。Aくんは、生き物で人を引き付ける力を持っているのだと気づきました。
 6月半ばぐらいから作家の時間の「出版」を目標に、お家の方に自分の伝えたいことを伝えようと、クラスみんなで頑張りました。多くの子どもが好きなことを意気揚々と書く中、やはり、鉛筆が止まってしまうのが、Aくんでした。
 もう、とにかく、書くということに対して、体が止まるようにできているようです。これまでの学習経験や、自分の苦手なことについても、心底理解しきっているのでしょう。気持ちが乗らないようです。けれど、僕はAくんは虫関係でとても良い経験をしているということを知っていたので、虫でアプローチしていきました。
私「カブトムシはどう?」
A「もうスピーチでやった。」
 なるほど。授業参観でやったカブトムシネタは、もう2回目は使わないということですね。
私「なんの生き物が好きなの?」
A「カメ」
私「ほう、ほう。」
A「今飼っているカメ。」
私「それじゃあ、絵を書いてみて!」
といって、原稿用紙半分に大きくカメの絵を書いてもらいました。なかなか、子供らしく迫力のある絵。
私「カメってどうやって飼うの?」
A「亀の餌をあげる」
私「噛まないの?」
A「噛まないよ。甲羅をつかめば噛まないよ」
と、亀談義をして、原稿用紙に書いた亀を切り取って、画用紙に貼り付けました。そして、「字を自由に書いて、絵を見た人がもっと詳しく分かるように書いてみて」と伝えたところ、ぽつりぽつりと不器用ながら書きはじめました。
もちろん、促音「っ」など、書けていませんが、まあとりあえずOK。書き始めたことがOKです。一応出版の原稿は完成しました。



 夏休みが明けて、ファンレター交換大会を開くと、Aくんの机の上には、お家の方から、友達から、ファンレターがどっさり。あんなに大きく絵を書いた子どもはAくんぐらいしかいなかったので、インパクトがあったのでしょう。また、文字が苦手な子どもが一生懸命書いたと伝わる文章なので、お家の方も進んでファンレターを書いてくださったのかもしれません。
 Aくんも自分の書いたものにこれほどの反響があるとは、思ってもみなかったらしく、呆然としていました。友達からも、「すげえなあ」と声をかけられています。
 夏休み前の懇談会では、出版された作品にはできるだけファンレターを書いて頂きたいということを保護者会で伝えてあったので、低学年の保護者ともなると、とてもがんばってくださいました。本当にありがたい。先生の励ましよりも、友だちになったばかりの子どもの保護者からファンレターが来る方が、効果があると思います。
 うちのクラスでは、保護者からファンレターが届いた場合、ファンレターのお返事を書くというルールになっています。Aくんは途端に忙しくなりました(笑)。おそらく全部はかけてないと思いますが、不器用なりに頑張って、できるだけ多くの保護者にファンレターのお返しを書いたのではないかと思います。彼の中で何かが成長したのではないかと思います。


 次の出版は12月末かな。Aくんがどんな作品を書くか楽しみです。

2015年11月27日金曜日

読む・書くときのエンゲージメント(Engagement)

日本の教育界では、この学習する際にとても大切な概念であるエンゲージメント(Engagement)をなんといっているのでしょうか?
(少なくとも、国語では聞いたことがありません。読むこと・書くことを最初から「苦役」と捉えているからでしょうか?)
読み・書きの視点で捉えた記事を見つけたので、紹介します。

高いエンゲージメントを示している子の特徴は・・・
「リーディング・ワークショップに、すでに読みたい本をもってくる子。その子にとっては、ミニ・レッスンも邪魔な存在と思ってしまうのですが、それでも、自分が読んでいる本にどう活かせるかという視点で聞ける。ミニ・レッスンが終わるなり、自分のいつもの「読み場所」に行って、早速夢中で読み始める。周りで何が起こっていようが関係なく集中して。読む時間が終わると、読んでいることについて紹介したくて仕方ない。自分の暮らしとの関連でも捉えている。読んでいることを、書くことにも使っている。すでに、次に読む本もリストアップしている」
教師たちにとっては、クラスがこういう子たちばかりだと楽で、たのしいです。

でも、現実には以下の3種類の子たちがいます。

engaged reader/writer/learner ~ 上で紹介したような、興味・関心をもって自分で主体的に読み・書き・学べる子。それをすることが本当に好きな子たち。(そういう子たちの特徴・特性をしっかり把握して、一人でも多くの子たちがそうなれるように助けるのが教師の役割)

②教師へのお付き合いで集中して読み・書き・学んでいる子たち ~ 興味・関心があるから、好きだから、読んだり・書いたり・学んだりしているのではなく、その時間だから(仕方なく)取り組んでいる子たち。多くの子たちはこの分類に含まれる。①の読み手・書き手・学び手になってもらう候補者たち。

disengaged reader/writer/learner ~ 教師が期待していることをしてくれない子たち。本を探し続ける子。自分の本が見つけられない子。本は手にしていても、ほんとうに読んでいるとは思えない子。いろいろなことに時間を掛けすぎて、本来すべきこと(集中して読みふける)ができない子たち。目立つので、教師が引っ張られてしまうのは、少数のこの分類の子たち。

◆ 子どもたちの熱中度/取り組み度を上げるには ~ ここが一番参考になる点です

     読むことを好きになってもらう。好きな本に出会える場やきっかけをたくさんつくる。
     読む時間を確保する。読んでいるものについて、話せる(話し合える)時間も含めて。
     選択を提供する。それもできるだけ多様な。家にも持っていける本の。
     他の教科や行事と関連づけてテーマを設定して本を集め、子どもたちの興味をひけるようにする。お気に入りの作家の本をたくさん集めるのも効果的。
     集中して読む(書く、学べる)ようになるには、いい関係が大切。子どもに関する情報を読む(書く、学ぶ)際に使いこなせる。教師と子どもの関係だけでなく、子ども同士のいい関係も大切。(要するには、読み手・書き手・学び手のコミュニティづくりが大切、ということ。)
     好奇心/知りたいこと/調べたいことを常に集め続ける。それが読む(書く、学ぶ)引き金になるから。
     主役を教師から子どもたちへ転換する。これまで目標を設定していたのは教師。それを一人ひとりの子どもにしてもらう。それでこそカンファランスやミニ・レッスンが効果的なものになる。目標設定こそが自立した読み手(書き手/学び手)への大切な鍵。

     出典: A Closer Look at Engagement,  by Cathy Mere

以上は、読むこと(書くこと)を中心に書いてきましたが、このエンゲージメントは国語だけでなく、すべての教科や学習活動・行事でも言えることです。それほど大切なことなわけです。


★ 日本では学力テストの煽りを受けて、教育委員会などは点数を上げるために教師に努力するように迫っているところも少なくありません。しかし、このエンゲージメント(Engagement)に言及しているところは聞いたことがありません。これこそが生涯にわたって学び続ける際に必要なのに。テストのための勉強は、苦役をこらえるスタミナのありなしと、短期記憶の得意・不得意に左右されるだけだというのに。


2015年11月20日金曜日

『聴能力!―場を読む力を、身につける―』と『理解するってどういうこと?』

  先週、電車の待ち時間にたまたま駅の近くにある大きな書店に行きました。ほんとうにたくさんの新刊書があるものです。電車の時間も迫ってきたので、新書のコーナーで表紙をこちらに向けて展示された本のタイトルだけをざっと眺めて、足早に歩き去ろうとしたのですが、目に飛び込んできた本のタイトルがありました。
聴解力?・・・理解についての本かな? と思い、手に取ってみると、違いました。本のタイトルは『聴能力!』(伊東乾著、ちくまプ新書、2015年)。一字違いだったので、本棚に戻しかけましたが、それにしても「ちょうのうりょく」と読めるけれども、「聴」の字を使ってあるし、副題に「場を読む力」とあるので、けっしてオカルトの本ではなくて、理解についての本らしいことはわかります。そして、目次の見出し語が魅力的です。

 はじめに
1章 「離見の見」で空気を読む-視覚と聴覚の二刀流
2章 コミュニケーションの聴能力-平板メディアとライブの奥行き
3章 トラと子猫の見分け方-耳で大きさを測る法
4章 聴かない「聴能力」-早口言葉と速読のテクニック
5章 耳にまぶたはついていない-日常に耳を澄ます
6章 耳は何のためにある?-進化から見た聴能力
7章 仮面の告白と「聴能力」-気配りから思いやりへ
 おわりに……命と思いをつなぐ

 買って電車のなかで読むことにしました。読み始めるとすぐ、次のようなことが書かれています。

 一部の「超能力」の正体は、間違いなく「聴能力」にあると思います。かつて人間は、大自然の中で、もっと多彩な能力を縦横に活用して、力強く生きていました。文明が発達すればするほど、そうした人間本来の能力が退化してしまったような気がします。(18ページ)

 『理解するってどういうこと?』の第7章で「よきメンター」となっていたパブロ・ネルーダの詩や文章を思い出します。『聴能力!』の著者伊東さんがここで「人間本来の能力」と言っているのは、世界と自分自身を、全体として感じ取り把握する力のようなものです。それは、日常のささやかな出来事をいとおしむように見つめ、考える力であり、ものごとの「悪い味わい」をかみしめるようにして世界を生きようとする意思のようなものです。
 そういうことを、空気を読むことや、コミュニケーションをすること、聴覚をとおして「見る」方法、ということなどを具体的に論じながら解き明かしていくのです。理解について考えるための本を探しているつもりが、人生の処方箋を読むような思いにもなります。次のような一節があるからです。

 だいたい、あがるとか緊張するとかいうのは、自分の中であれこれ思いあぐねたり悩んだりするから、体が硬くなるのです。一種の妄想でしょう。そういうときは虚心坦懐に耳を澄まし、全神経をあたりを察知することに集中するのがいいですね。自分が自分が、という意識がすーっと消えて、全身全霊がセンサーとして研ぎ澄まされてゆくと、余計な妄想は消えてしまい、クリーンファイトの青い炎で燃焼する心の準備が整います。(45ページ)

 そういえば『理解するってどういうこと?』の第4章ではアメリカの画家ホッパーの絵が取り上げられて「耳を澄ます」という理解の種類とその成果について書かれていました。伊東さんの本は「聴能力」についての本ですから「耳を澄ます」というフレーズがあらわれるのは当然と言えば当然なのですが、上に引用した部分などを読むと、「耳を澄ます」ということがどれほど「わかる」ことそのものなのかということがよくわかります。
 そして「読み方」についての示唆ももちろんあります。第4章「聴かない「聴能力」」のところです。伊東さんは幼いころ、自分の母親から「本は頭のなかで音にしてはいけない」と教わったそうです。速読する場合にはそれが一番大切だということを伊東さんは身をもって体験しました。音や声に出すこととのわかりやすい対比は次のようになされます。

目の前に置かれた楽譜を見ながら音を出して演奏することも出来ますが、全体を瞬時で見て、そこにどういう形式や構造があるかを一挙に掴むという楽譜の読み方も、非常に大切なものです。(124ページ)

しかし、ここからがおもしろい。伊東さんは別に音読することに価値がないと言っているわけではないのです。いろいろな例が使われますが、ここでは「楽譜」の読み方と演奏の場合に「頭の中で音にする」ことと「声に出す」ことがどうなるのかについての伊東さんの文章を引用します。

楽譜は先に先に読んでいかねばなりませんから、いちいち音にせずに譜面を読むのは実際に役立つテクニックです。
これに対して、頭の中で音にして高速で読むのは、歌を所見で歌うときに役立つ方法です。ピアノやヴァイオリンと違って、歌つまり声楽は自分で音程やリズムを取ってゆかねばなりません。
ある部分を歌いながら、その先を読むというような場合、頭の中に響きのイメージを高速でまわしながら譜面を読むと失敗が少ないのです。
そして一番ゆっくり、書かれたリズムの通りに音楽を反芻する、というのは、自分固有の解釈や、新しい作品を創りだすとき、何度も何度も繰り返し、試行錯誤する方法です。(130~131ページ)

この三つのやり方は、本や文章をまずざっと点検しながら情報を取り出すようにする読み方、本や文章の物語内容や組み立て方を追いかけるようにして読む読み方、そして、表現をじっくりと捉えて著者の意図性を読み取ったり、本や文章についての自分の解釈を深めたりする読み方、に対応すると思います。三つ目の後に話し合いがなされると、他の人が行った三つの読み方と出会うことができますし、自分の解釈がさらに深まることになります。伊東さんが例に挙げている「譜面」を本や文章に置き換えれば、こうした考え方は、『理解するってどういうこと?』第5章での、表面的な理解構造と深い理解構造についてのエリンさんの考え方と通じていると思います。
こうして、二冊の本が意外に多くの点で共通していることに驚いているうちに、電車は私が降りるべき駅をもう少しで行き過ぎてしまうところでした。伊東さんの本が私を「熱烈な」読者にしてしまったのです。

                 (パソコンと格闘している山元さんに代わって、吉田が貼り付けました)

2015年11月13日金曜日

理解できないところを「自分で」見つけられるようにする


  (皮肉たっぷりの言い方で)「そりゃいいね。なにしろ全部分からないないんだから」 

 上のセリフは、時々読み直す本★の中で出てくる子どもの発言です。

 「分からない!」と言う子どもたちに対して先生が、「最初に分からなくなったと思った箇所に付箋を貼って、どのように分からないかメモしてみましょう」と言ったことへの、子どもの応答です。

 (先生)「どこか分からないの?」 
 (生徒)「全部」

 という会話は、この教室だけでなく、自分が教えてきた経験からも、けっこう耳にしてきた気がします。

 こういう子どもたちは、分からないまま過ごしてきた時間が長かったのでは?と思います。

 そういう子どもたちに、特に必要ではないかと思うのが、「分からない箇所がどこか、どこで分からなくなったのかを、自分で見つけることができる」という能力です。「自分が理解しながら読めているのかどうかを、自ら確認する能力」と言えるのかもしれません。

 分からないところを、自らはっきりさせないまま、長年、読むフリ?をしてきた子どもたちには、理解できないところを「自分で」見つけられるようにする、というミニ・レッスンはいかがですか?

 この本の著者は、以下のようなときは、分かっていない場合が多いと、子どもたちに教えています。

1.テキストと対話ができなくなり、ただ、単語を追っているだけになっているとき
2.頭の中の「映像カメラ」が切れてしまい、何が起こっているのかイメージできないとき
3.テキストから離れて、他のことを考え始めるとき
4.読んだことについて何も覚えていないし、再話できないとき
5.はっきりさせるための質問に、自分で答えられないとき
6.登場人物が再びでてきても、誰だったか思い出せないとき

 ミニ・レッスンなどで短いテキストを使い、「分かっている箇所と分かっていない箇所を、自分で見極める」という練習も、(特に高学年には?)時には必要な気がしています。

 また、学期の早いうちに一度行うことで、「分からないことを見つけることは大切、これは自分で行うこと」、というメッセージをはっきり送るのも、いいかなとも思っています。

*****

★ 上で紹介した本は Cris Tovani著のI Read It, But I Don't Get Itで Stenhouse より2000年に出版されています。うえの6つのは38ページにやや詳しめに、48ページにまとめて載っています。

 余談ですが、RWというと、私の頭にはまずナンシー・アトウエル氏の実践が浮かびます。同じRWと言っても、上の本を書いたクリス・トバニ氏の実践とは、受ける印象がかなり異なります。

 トバニ氏の方が、読み方をどうやって教えるか、そして、そのための練習も具体的に載っています。これらを意識しすぎると、かえって、読む流れが中断するのでは?と思うときもあります。でも、読むことは楽しい、とか、しっかり理解して読んでいる、という経験の乏しい子どもを教えるときのヒントは多いように思います。

2015年11月6日金曜日

『読書家の時間』を読んで (3)

 2014年4月に出版されたプロジェクト・ワークショップ編著の『読書家の時間』への3人の感想を紹介します。

● 10章の「教師の変容」は圧巻!

最初に、この本が扱っている内容が「読むこと」についてであり、それは一般の教員が常日頃教えていることなので、大変にイメージがしやすく、細かいノウハウが参考になる、と思っていました。
しかし、やはり圧巻は第10章の「教師の変容」でした。

ここにはRWを取り入れようとしながらも、従来の教師が学びをドライブすることへの未練を捨てきれない教師の姿が描かれています。これは、RWやWWに関心を持ちながらも実践には躊躇している教員にとって、とても身近に感じる姿です。まさに私自身のことでもあります。そして、子どもたちが自分の思いで学べないことによってクラスが荒れていく姿は衝撃的でした。この教師はこうした子どもたちを見て再びRWに取り組み、次第にうまく回るようになっていきます。こうした教師の姿を具体的に示しているこの章は非常に貴重だと思います。

私はこの章を読み終えて、これは教えることに対する一種のパラダイム変換の必要性を教えてくれるものだと思いました。教師は自分の力で子どもたちを教えよう、とどうしても考えてしまいます。しかしそれは、子どもたちの力を伸ばしているのではなく、教師の自己満足の追求です。真に子どもたちが自分の力を伸ばすには、子どもたちが学びの主体となって、自分たちで学んでいくようにさせることが必要です。10章の教師が語っているように、「(教師の)見たい姿だけ見るのではなく、子どものありのままを全部受け入れて、子どもたち自身が今よりもさらに目指す姿に近づけるように、助言したり繰り返しチャレンジできるようにしたりすること」が、これからの教師には必要です。これは、教えることのパラダイムを変換することだと考えます。
続けて10章の教師は「技術よりも、子どもを信頼することや、教師が学び方のモデルを示すことが大切な気がします」と述べています。ノウハウも確かに必要でしょうが、これから教育にとって必要なのは、まさにこうした教師の考え方の変革です。

           峰本義明(新潟青陵大学短期大学部幼児教育学科)


   <メルマガからの続き>


● すぐに実践できるように書いてある本

まずは、第一章と第二章の感想を送ります。

 この本のすごいところは、「時間」をしっかりと捉えているところにあります。何かを始めるときに、「こうするといいよ!! こうやるんだよ!!」というような説明がされます。「こうする、こうやる」と、「こうなるよ」って効果や結果ととともに。

 しかし実際にそれをやろうと思うと、すでにある日常の流れ、習慣の中に、どうやって組み込んでいけばいいのかが鍵になります。が、多くのケースは今やっていることの上に足し算をする形になり、結局は従来の方法との統合が取れずに、試みや取り組みは失敗に終わってしまいます。

 その問題をこの本は、見事に乗り越えていると思いました。そのあらわれが第一章と第二章です。

 第一章では、もっとも変化をつくるのに時間とエネルギーがかかる最初の段階を丁寧に紹介してくれています。「10時間」という具体的に達成可能な数字目標を示し、かつその10時間を実際のカレンダー(四季の流れ)の中に落とし込んでいる。何をどうすればいいのか? それはなんのためか? がしっかりと紹介されています。

 第二章では、環境面へのアプローチです。何をどうすればいいのか? その意図や目的は何か? などが具体例とともに紹介されています。教室の机の配置から読書ノート、その管理保存の仕方まで。

 この第一章と第二章があることで、読書家の時間を知りたいだけなのか? 実際にやりたいのか?がハッキリしてくると思いました。知りたいだけなら読んで終わりでいいし、実際にやるなら創意と工夫の余白がたくさんある。

                       Mさん


●指導と評価の一体化を実現している教え方

 全国の多くの学校で、「朝の読書」が実践されていますが、以前から私はそれだけではもったいないと感じていました。さらに、次の段階へ進むべきだと考えていました。この本の中には、その「次の段階」に進むヒントがたくさん散りばめられています。
 「ミニ・レッスン」「カンファレンス」「共有の時間」という流れで「読書家の時間」が構成されています。それぞれがうまくつながりあって、読書の楽しさ、面白さを子どもたちに味わわせることに成功しているように思います。
 「子ども主体」と言っても、すべてを子どもに任せるわけにもいきません。「ミニ・レッスン」の中で、読みに関するモデルを教師が示したり、様々な読み方を提示したりすることによって、子どもたちは本物の読書家に育っていきます。
 教師が手本を示すところと、子どもたちに自由に活動させるところが、有機的につながりあって、この時間のよさが最大限発揮されることになるのだと思います。まさに、ワークショップと共通するような「学び方」「教え方」です。
 また、評価に関しても、これまでのあり方を変える方法が示されています。
 本文158ページには次のように書かれています。

指導書の計画通りに進め、それに十分ついてきた子どもはよい評価をもらって喜んでいたことでしょう。逆に、指導書とは違う考えをもっていた子どもはあまりよい評価を得られず、学期末の振り返りには「国語は得意ではないです」と書いたことでしょう。評価は子どものためにあるとは考えず、ただ自分の仕事をこなすためにやっていたのです。

実は私も小中学生の時、国語の評定がよくありませんでした。なぜ、正解のように考えなければならないのか、どうしても納得できないことがしばしばありました。もし、評価観が上記のように変わっていれば、私も国語好きになっていたことと思います。
評価に関しては、最終的に「自己評価力」を目標とするというのは、とても大切なことだと思います。その力はおそらく単に教科の中だけという狭いものではなく、子どもの生活の様々な場面で活用される、学習指導要領でも取り上げられている「生きる力」の一部です。

最後に、第10章の「教師の変容」に触れておきたいと思います。
192ページに次のようなくだりがあります。(「読書家の時間」の実践を3年以上された教師のインタビューの部分)

 子どもたちが主体的に学ぶためにはどうしたらよいかについて、一生懸命「教材」研究もしましたが、教材のなかにその答えを見つけることはできませんでした。なぜなら、私にとっての教材研究は「どうやって教えるか」であり、その時点で「教師が教える」ということに力点が置かれていて、「子どもが学ぶ」ということに力点が置かれていなかったのです。

ここは教師の立ち位置として重要なところです。このことに無頓着な教師がベテランと言われる教師の中にも少なからず存在します。つまり、「読書家の時間」を進めていくことは教師としてのあり方を自らに問う貴重な機会を提供してくれるとも言えるでしょう。

こんな素敵な実践が今後多くの学校に広がっていくことを期待したいものです。


                 白鳥信義(帝京平成大学)


2015年10月30日金曜日

カンファランスと『南国港町おばちゃん信金』



南国港町おばちゃん信金』という一風変わったタイトルのいい本を紹介します。

著者の原康子さんが、南インドのスラム街で培った国際協力のあり方(本当に役立つ支援の仕方)をまとめたものです。
これの応用範囲はとても広い! と思って読みました。
もちろん、草の根の海外協力に役立つことは言うまでもありませんが、国内の地域(コミュニティ)づくり、組織づくり(組織改善)、学級経営、共同プロジェクトの実施などなど。

この本のエキスが、「援助をしない技術」の10のステップとしてまとめられているので(185~7ページ)紹介します。
 アプローチが何かに似ていると思いませんか?



そうです。リーディング・ワークショップ(RW)やライティング・ワークショップ(WW)のカンファランスです。
逆に言えば、カンファランスはこういう仕事をするのにそのまま応用できるということです。教師が読書家の時間や作家の時間でいいモデルを見せ続けることで、そして子どもたちにピア・カンファランスをさせることで。
RWやWWでは、そういう極めて価値の高いことに日々取り組んでいるのです。

2015年10月24日土曜日

書き手の目で読む


 絵本、本、詩など、まずは読み手として、読むこと自体を楽しみたいと思います。でも、読み手としてだけ楽しむだけでなく、時には、「書き手として読む」ことも、楽しみたいです。

 ストーリー(あるいは大きな内容)が分かったあとに、書き手の目で、再度読むことで、上手な書き方が学べるので、二倍良い!と、以前は思っていました。

 最近は、上手な書き方が学べるだけでなくて、同じものを分析的に読むことで違う読み方の練習もできて、読み方もさらに上手になるし、でてくる語いも繰り返しになるので語いの定着にも効果的なはずだと、思っています。(三倍以上の効果では?)
 
 『リーディング・ワークショップ』(新評論、2010年)の4647ページには、読み聞かせで使った本の一部を使って、作家の特徴的な書き方やその作家がつくりだそうとしている効果を学ぶ例が紹介されています。ここでは、本の中で注目すべきポイントを、先生が子どもたちに伝えています。

それ以外の方法としては、自分の好きな本、気に入っている本を自分で選んで、どうして、そういう効果が生み出されているのかを、自分で探してみるというのは、いかがでしょうか。

いきなり探すのはイメージしにくいので、先に、書き手の工夫例をいくつか挙げておくと、見つけやすくなります。いずれは、自分で一人読みのときにも、書き手の目で読めるようにするためにも、このステップは大切だと思います。自分の好きな本なら、「どうしてこんなに好きと思えるの? それはどんな工夫をしているからなのか?」、とまさに宝さがし?です。

書き手の工夫が満載の本があれば、それを1冊指定して、みんなで「ひとり一つはみつけよう」もいいかもしれません。自分が気づかない点にも気づけます。
 
最近、英語の文献では、メンター・テキスト関連の本を、以前よりもたくさん見かけるように思いますが、それは書き手の目で読むことの価値に気づく先生が増えてきたからかもしれません。