2017年12月15日金曜日

「何が大切かを見極める」と人生の選択


 12月に入ってすぐ、ジョー・ウォルトン(茂木健訳)『わたしの本当の子どもたち』(創元SF文庫、2017年)という小説を読みました。ある老人ホームの一室の描写から始まります。物忘れが激しくなり、混沌のなかに生きる老女の、どうやら半生記のようです。



 自分の脳がまったく信用できなかった。彼女は、自分はふたつの世界を生き餌居て、そのあいだを知らないうちに行き来しちるのではないかと疑った。でも、そう考えてしまうこと自体、おそらく脳が混乱しているせいだった。

    (中略)

 しかし、本当にふたつの世界が存在しているのだろうか?

もし本当にふたつの世界があるのなら、いったいなにが原因で彼女は、そのあいだを行き来するようになった?(23~24ページ)



こうしてこのヒロインは混沌のなかで自分の半生を振り返るうち何かに気づいていきました。最初の章の終わり近くに、次のように書かれています。



もしこれが彼女の選択であるなら・・・・・・そう、たしかに彼女は、そんな選択をした覚えがあった。当時の他の思い出と同じく、そのときの情景がくっきりと蘇ってきた。彼女は、パインズ女学校の廊下に設置された小さな電話ボックスのなかにいた。電話の向こうではマークが、今この場で彼との結婚を承諾するか、それとも分かれるかという二者択一を迫っていた。(25ページ)



 「マーク」とは彼女(あえて「彼女」と書いているのは、明らかに主人公でありながら、この小説でいろいろな名前で呼ばれる女性だから)のフィアンセ。オックスフォード大学卒業後、小さな海辺の町にある「パインズ女学校」の教師をしながらフィアンセからの連絡を待っていた。そこに「マーク」からの電話があった、ということを彼女は思い出したのです。さて「イエス」か、「ノー」か。小説は「イエス」バージョンの彼女の人生と、「ノー」バージョンの彼女の人生を交互に紡ぎながら進んでいきます。どちらのバージョンでも彼女にはパートナーと子どもができます・・・え?「イエス」なら「マーク」との間の子どもだろうけど、「ノー」なら誰の子ども? いやいや、「ノー」なら一生独身かもしれないから、子どもはできないんじゃない? そもそも「イエス」でも子どもができるとは限らないのに? と、いろいろな疑問が生まれるでしょう。

 理解するということも「選択する」ということを教えてくれるのがエリンさんの『理解するってどういうこと?』です。「理解するための7つの方法」のなかで「選択する」ことに最も関係するのが「何が大切かを見極める」という方法です。本や文藻のなかの大切な部分を見つけて、なぜ大切と思うかの理由を考えることは、そこまでの読書行為を見直す作業になるでしょう。私たちはそんなふうにして本や文章の意味をつくりだしているのです。何を残して、何を捨てるのか決めなくては「何が大切かを見極める」ことはできません。その選択が意味をつくり出すのです。それは自分の注目した部分を他の事柄と結びつけようとすることになります。

 ある道を選ぶということは、他の道を行くのをあきらめることになります。だから私たちは迷うのだし、真剣に慎重に、考えられる限りの可能性を考えざるをえません。選択するということは、何かを必ず失うということでもあります。だからこそ、選んだことの背後には、選ばなかった多くのことが後景として残されているのです。どれだけ多くの可能性を捨てたのかということが、選択したそのことの重みを決定づけます。

 テリー・イーグルトンは読者論(受容理論)の主張を踏まえて、「読者は、隠されたつながりを見出し、空白部を埋め、憶測を立て、推理を確認しながら進む(中略)テクストとは、読者に言語の断片を意味あるものに構築するよう誘う、一連の「合図」以外のなにものでもない」(テリー・イーグルトン(大橋健一訳)『文学とは何か』上、岩波文庫、186ページ)と言っています。小説も人生もそのような「合図」を絶えず私たちに送っているものなのかもしれません。「大切なことを見極める」という方法を使って、私たちはその「合図」のいくつかは捨て、いくつかを選び取って意味づけるのです。

『わたしの本当の子どもたち』の最終章のタイトルも「選択」です。いったいそこで彼女は何を選択するのでしょう? この小説のヒロインの女性は「隠されたつながりを見出し、空白部を埋め、憶測を立て、推理を確認しながら」、最終的に彼女の人生において「何が大切かを見極める」ことになるのです。そして読者である私もまた(もちろん、どこまでも迷いながら)。

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